« 戦国BASARA弐 #8 | トップページ | 戦国BASARA弐 #9 »

エリザベート

久々にサボりすぎた本業(このブログが生まれた時の目的orz)に着手!

エリザベート:瀬奈じゅん トート:石丸幹二 の回でした!

瀬奈さん男前過ぎるおww気の強さが皇太后と張ってましたよ!石丸さん、初めて見ましたが・・・トートこの人で固定でいいと思う←

う~ん、よかったんだが・・・言い方悪いけど、やはりヅカと四季の天下りさんなのでその匂いが充満していて安易に出来栄えの予測が出来てしまう。良くも悪くも・・・。

そんなこといったら・・・東宝ミュージカルに行けませんが(笑)。正直、脱ヅカ四季で見たいと言う気持ちがあったりします・・・。

しかし、エリザはどうして年齢高めの方がやるんだ!?と思ってたら・・・少女時代ってちょっとしかないんだ!女性としての演技時間が長いからやはりそっち重視のキャスティングになるんですね。

そんな感じで―――

久々の帝劇でテンションやばかった。今は反省している。

・・・じゃなくって!エリザの話に関しての知識は以下の通りでした。

おてんばが皇室に嫁入り→夫マザコン&嫁姑戦争勃発→泥沼

・・・よくこれで観に行ったな、自分!

さて、前置きはここまでにして。まず、出だしのシーン、ルキー二のシーンは衝撃でしたね。舞台装置はホーンテッドマンションを思い出したw生と死がテーマらしくダークな雰囲気漂うOP。

曲や雰囲気なんか宝塚に合いそうな感じがよくわかった。OGならなおさらやりやすそうな雰囲気です。日本に合ってるんですかね?

それで全体として自分が感じたのは・・・正直1幕の前半は眠かったです(笑)。ただ後半になって革命の匂いがしだして来たところから火がついたと思いました。正直始めは「私だけに」以外のメイン要素が見当たらなくて・・・どの辺がロングランなのだろうかと疑問だった。

しかし、1幕後半から激しいナンバーと帝劇にしては激しい動きが目立った。それから見入ってました。

とくに「おお!」と思ったのが2幕でウィーンがファシズムに染まる場面。何というか、それ以前の場面は王室の人物、服装や装飾品、そして制度など我々にとって全くの夢物語とも言えるような想像でしかない歴史の再現でした。「こんな感じだったのかな・・・」と残された遺品から想像するということしか出来ない時代、実感が無い時代。そこに突然、ナチスで御馴染みのあのマーク(エリザベートの時代だからナチ党の印と言う訳ではないのかな・・・?)が出現する。この瞬間、この時代は私たちの生きている時代に続いているんだと感じました。夢から一気に世界は現実味を帯びました。何というか、ファシズムと聞くとやはり第二次世界大戦を思い出します。我々にとって自分の国が戦争した最も最近の戦争。資料も豊富だし、語り継いでいる人もいる。だから我々は間接的にそれを知っている。その知っているものが突然劇中に現れ、夢と現実がリンクする・・・そんな不思議な感覚に陥りました。

物語として描く歴史にはファンタジーに描いて何の違和感も無い時代と現実味が無いものは許されない歴史みたいなものがあると思います。後者は最近ですよね。エリザベートはちょうどそのボーダーラインを跨いでいる時間軸を持っているような気がします。夢から現実にその飛び込む不思議な瞬間を体感できるのがエリザベートの魅力かも。

人物像に踏み込んでいくと・・・エリザベートと皇太后の二人の女性が気になりました。エリザベートは宮廷の仕来りを嫌い、自由を望んでいた人・・・一見、よくあるヒロインタイプかと思えば見方を変えると大分残念な面が見えてきます。当時の時代背景を考えれば帝国主義時代ですし、皇太后の厳しさにも納得できますし、それだけ揺らがない国家が必要とされていたのがわかります。本当は自由奔放なんていったられなかった気が・・・(汗)。そう考えるとエリザベートは現実を直視するのが苦手だった人だと言えます。ルドルフを自分の手で育て無かったのが疑問です。これでは何のために皇太后から取り返したのかさっぱりでした。理想に向かって走れるけど・・・理想が現実になってぶつかる困難に立ち向かえない女性と感じました。

まさに逃避の人生だったかと。そのせいか、一度も皇太后と腹を割って向き合った場面も無く、夫との関係も時間に任せ、最後はルドルフの声も聞いてやれなかった。

切り開く力はあるのに使う方向性を間違えてしまった。「帝国の不幸」という言葉が何となくわかります。自分のことしか大事に出来なかった悲しい女性だったのかもしれません。その結果、自業自得なのかもしれませんがルドルフを失った。

生まれてくるべき時代を間違えた人だったのだと思います。

そしてトートとの絡みですが、トートって「死」の擬人化らしいですね、本場版では。その話を何となく聞いていたので彼の存在に「なるほど!」と感動することがありました。

東宝版はトートを死の帝王とはっきり書いてしまっていますが、それだと表面化しすぎて面白くないのであえてエリザとトートの関係を本場の概念で考察してみました。

トートは私達の中にいる。

トートが「死」そのものなら私達の誰もが彼を宿し、彼に出会います。人間誰しも一度は死ぬことを恋しく思う瞬間があると思います。嫌なことがあったりして漠然とあるいは真剣に自分の「死」を考えたことがあると思います。その瞬間、我々はトートの魅力に惹かれているのです。「死」に対する欲求が大きくなればなるほどトートへの愛は深まっていく。劇中でエリザは一度トートを求めますがトート拒否されます。それはエリザが心のそこから「死にたい」と思っていなかったからです。まだ人生を捨てたくないと言う気持ちが残っていたのでしょう。自殺を思い止まる人はエリザと同じことトートに言われているのかもしれません。我々が死ぬ瞬間、寿命であれ事故であれ・・・命尽きる時間は様々ですが、どんなに短くてもその刹那に我々はトートとの愛を誓い、結ばれた瞬間、生命の「死」を迎える。彼と愛し合うこと=生命としての死を受け入れる、と言うことになります。

だから自分はエリザとトートは「恋愛」的な関係ではなく、エリザが「死」を恋しく思う一連の心情をトートという「死」の擬人化で恋愛に見立てたもの。

ラストのトートとの愛が誓われる場面を見て、この物語は「私だけに」でわかるように自分の人生に固執し続けた女性が、ついに「死」よって人生を諦める物語なのかと思いました。

最後にぶっちゃけると―――

途中からトートがただの変態にしか見えなくなったのは管理人だけではない・・・はず!

おもしろかったです!別のキャスティングも見てみようかと思いましたが・・・果たして財布が持つだろうか(汗)。

にほんブログ村 演劇ブログへ
にほんブログ村

|

« 戦国BASARA弐 #8 | トップページ | 戦国BASARA弐 #9 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: エリザベート:

« 戦国BASARA弐 #8 | トップページ | 戦国BASARA弐 #9 »